第1章【1】
まだ真新しい畳を見つめながら青年は考えを巡らせた。
俺はどうしてここにいるのだろうか。
夢だと思っていたあの気持ちの悪い機械音声は夢ではなかったのか?
もし夢ではなく現実に起こった事だとしたら、俺は面倒な事に巻き込まれたということになる。
まあどちらにしろ早いところ元の生活に戻ろう。
青年は再び畳に寝転がった。
その瞬間、あることに気づいた。
自分が今までどのような生活を送っていたのか思い出せないのだ。
鼓動が次第に早くなり全身が火照りだした。
落ち着け。自分自身にそう言い聞かせ何度も深呼吸をした。
しばらくして気が落ち着くと青年はもう一度よく考えた。
あの奇妙な声を聞く前は自分はどこでどのような生活を送っていたのかを。
しかし、いくら考えても思い出せるのは自分が20歳であるということと、14歳以前の出来事だけだった。
もう考えるのは止めよう。
いくら考えても思い出せない事は思い出せないのだ。それに自分の名前や今までの生活なんて別に思い出したくもない。
視線を窓際に移すと丸い夕日が見える。
青年は目を細めて夕日を見つめながら考えた。
これからどうなるのだろうか。
突如バタバタと何かが階段を駆け上がる音がした。
青年が驚いて跳び起きたと同時に、部屋のドアが大きく開いて小さな子供が現れた。
「こんにちは!お兄ちゃん!」
子供がニコッと笑うと短い桜色の髪が微かに揺れた。
青年は驚きのあまり何も言葉が出てこなかった。
そんな青年を子供は紫色の大きな瞳で見つめている。おそらく年齢は5、6歳といったところだろう。
「りせー、急にどうしたの?」
下の階から女の声が聞こえた。
「こーちゃん!こーちゃん!早く来て!!」
「何?どうしたの?」
子供に催促されて女はゆっくりと階段を上ってきた。
「こっちこっち!」
子供は頻りに手招きをした。
「あれ?ここに部屋なんかあったかしら」
若い女が青年の部屋の前に姿を現した。
おそらく青年と同じ歳くらいだろうが、白い肌に真ん丸いオレンジがかった瞳と、Wに似た形をした唇のせいかどことなく子供っぽく見えた。
女は固まったように真ん丸い瞳で青年を見つめた。
やがて女ははっとして何かを恐れるように2、3歩後退りをして小さな子供を抱きしめた。
「あなたは誰なの?どうしてこの家に居るの?」
女の声は震えていた。
青年は何と答えれば良いのか解らず、黙ったままだった。
「答えて。あなたはどうしてここに居るの?」
「さあ、どうしてだろうな。それは俺が聞きたい事だ。俺は気づいたらこの部屋に居た。今までの暮らしも自分の名前もわからない」
「自分の名前も?」
女の声から震えは消えていた。
「そうだ。お前もそうだろ」
「私は自分の名前はちゃんと覚えているわ」
「じゃあ今までの生活も覚えているのか」
「それはわからない」
女は首を横に小さく振って子供をちらっと見た。
青年もそれにつられて子供を見た。
子供はそんな2人を交互に見て口を開いた。
「ぼくね、莉世っていうんだよ!こーちゃんの名前はこびわっていうの。お兄ちゃんの名前も教えてよ!」
子供はどうやら今までの会話が理解できなかったようだ。子供は瞳をきらきらと輝かせて青年を見た。
「俺は自分の名前を忘れてしまって思い出せない」
わくわくしながら返答を待っている子供に向かって青年は素っ気なく答えた。
「お兄ちゃん、名前忘れちゃったの?」
「ああ、そうだ」
「じゃあぼくがお兄ちゃんの名前考えてあげる!」
子供は女の腕を取り払い元気よく青年の元へ駆け寄った。
そして幼い両手で寝癖が付いて、くしゃくしゃになった青年のさくらんぼ色の髪を触りながら一生懸命考えた。
「うーんとね、お兄ちゃんの名前は、お兄ちゃんの名前はー…ももた!!」
ももた、おそらく漢字にすると桃太になるんだろうな。青年は考えた。
「いや?」
子供は心配そうに青年に聞いた。
「別になんでも良いから大丈夫だ」
「ほんと?じゃあ、お兄ちゃんの名前、決まったね!」
こうして青年の名前は桃太ということになった。
「今日からぼくと桃太とこーちゃんでこのおうちに住むの?」
「たぶんそうだろうな」
「やったー!!」
喜ぶ莉世をこびわは困惑した表情で見ていた。
見知らぬ人間と一緒に暮らすことになったのに、どうしてそんなに喜ぶことが出来るのか彼女には理解できなかった。
「ねえ桃太、下に降りようよ!」
莉世が座っている桃太の肩を揺さぶって催促するので、桃太は仕方なく無言で立ち上がった。
桃太の立ち姿を見て、こびわは思わず息を飲んだ。彼はこびわが思っていた以上に大きかった。
莉世は瞳を輝かせ桃太を見上げた。
「わー!桃太、大きいね!」
「これくらい普通だろ」
普通なわけないでしょ。
こびわは思った。
自分の身長は160cmある。そんな自分と比べると桃太は20cm以上高いだろう。
がっちりとした体つきのせいか、こびわには桃太がなおさら大きく見えた。
「なにかおかしいか?」
こびわがずっと自分を見ていたので桃太は不思議に思った。
「いや、べつに、なにもない」
こびわは思わず桃太から視線を反らし俯いた。相手にはまったくそんな気はないだろうが、なんだか見下されているような気分だった。
「ねぇねぇ、早く降りようよ!」
桃太の後ろから莉世がひょこっと顔を覗かせた。
莉世の一言でぱっと顔を上げると、こびわは莉世に向かって微笑んだ。
「そうね、降りましょうか」
3人は部屋を出て1階へ降りた。
1階には浴室、便所、リビング、そしてキッチンがある。
こびわは夕食の準備をするからと言って1人でキッチンへ向かった。
莉世と桃太はリビングに行き、大きなソファーに腰掛けた。
ソファーのちょうど目の前にはテレビが置いてあり、ソファーとテレビの間にはちゃぶ台がある。
桃太はちゃぶ台の上に置いてあったリモコンをとった。そのリモコンには電源ボタンがあるだけで他にボタンは付いていない。
変わったリモコンだな。そう思いつつ電源ボタンを押すと、真っ暗だったテレビ画面に映像が流れ出した。
どうやら知らない土地で起こっている戦争の様子らしい。
音声はまったく流れず、映像だけが淡々と流れつづけた。
チャンネルを変えようと思い桃太は立ち上がってテレビの前に行った。しかし、テレビのどこを探しても電源ボタン以外のボタンは見当たらない。
桃太は諦めてテレビの前から離れてキッチンへ向かった。
キッチンではこびわが1人でせっせと料理を作っている。桃太がキッチンに来たことに気づいていないようだ。
「おい」
桃太は低い声でこびわを呼んだ。
その声に驚いてこびわはびくっとした。
「そんなに驚かなくても良いだろ」
「なに?」
こびわは包丁で何かを切りながら言った。
「買いに行くものはないのか」
「お肉にお魚、卵、牛乳、野菜、お米、それから調味料。気持ち悪いくらい全部揃っているから大丈夫よ」
桃太は冷蔵庫を開けてみた。
なるほど。確かに冷蔵庫の中には様々な食材がびっしり詰まっていた。しかもどれも新鮮でみずみずしい。
「まったく不思議だな」
「そうね」
桃太のつぶやきにこびわは素っ気なく答えた。
桃太はキッチンを出て、階段を上った。
階段を上り終えると廊下が真っすぐ繋がっていて、部屋が3つある。
1つは桃太の部屋。そしておそらく残りの2部屋は莉世とこびわの部屋だろう。
桃太はさきほどの部屋に入った。
ドアを開けてそのまま真っすぐ進むと大きな出窓がある。桃太は出窓の鍵を開けてベランダに出た。
ベランダからは辺りがよく見えた。
家の前には大きな川があり、その川を囲むように同じ高さの同じ形をした木が等間隔で植えられている。
家と川の間には川と平行に細い一本道があり、その道は先が見えないほどはるか遠くまで続いていた。
どうやらこの家の周辺にはにはなにも無いようだ。
桃太はベランダの柵に寄り掛かり、沈みかけた夕日に照らされて赤く染まった川を眺めていた。
「桃太、何してるの?」
いつの間にか桃太の隣に莉世が居た。
「川を見ているだけだ」
「川?川があるの?ぼくも見たいな!」
莉世の高さからは木しか見えないようだ。
桃太はなにも言わずに莉世を抱き上げた。
「ほんとだ!川だ!」
莉世は嬉しそうにキョロキョロと辺りを見回した。
「桃太は大きくて良いなあ」
「お前もそのうち大きくなれるよ」
「ほんと?ぼく、桃太みたいに大きくなれるかな?」
「男だろ。なれるだろ」
「ちがうよー!!」
莉世は急に頬を膨らませて怒った。
「ぼく、男の子じゃないよ!!」
「は?」
「ぼくは女の子だよ!」
桃太は表情には出さなかったが驚いた。
「だってお前、ぼくっていうからてっきり男かと」
「女の子!!」
莉世は大きな瞳で桃太を睨んだ。
桃太は小さくため息をついて言った。
「わかったよ。莉世は女だな」
「うん!」
莉世は嬉しそうに笑って大きな声で返事をした。
いつの間にか夕日は完全に沈み辺りはもう真っ暗になっていた。どこからか魚が焼ける匂いがする。
「ご飯の時間だね、こーちゃんのお手伝いしないと!」
莉世は桃太に下ろしてもらうと走って1階に降りて行った。
桃太はベランダから出て部屋に入り、カーテンを閉めながらつぶやいた。
「まったく不思議だな」
そして莉世に続いて1階へ降りて行った。
前
TOP
次